マーレイはケルベロス隊に次々と指示を出し、シーモンとノアンを安全な場所へ誘導した
端末で次にするべき行動を考えながら、マーレイはかつてないほど自分が冷静なことに気付いた
戦術、指示、医療補給……それ以外に今この状況にはふさわしくない些細な思い出すらも、全てがはっきりと脳裏に浮かび、整頓された本のように目の前に並んでいる
この大変な状況で自分を支えてくれるのは、兄との美しく楽しかった思い出だと思っていた。だがその思いに反して脳裏に浮かぶのは、どれもすれ違いと後悔の記憶だった
祭りの夜に、扉を開けられなかった後悔――
兄が構造体に改造されて、自分は何もできなかった無力感――
僕たちでは兄さんを助けられないと思っているから?
そんなこと、考えたこともない。それはお前もわかっているはずだ
本音で話せるタイミングは何度かあるにはあった。だがそれは不安、心配、怒りの下に隠されていった
ふたりの間でそれが当たり前になり、マーレイもそんなジレンマすら忘れかけていたある日の午後のこと
シーモンの状況はどうですか?
……死んじゃいないわね
ヴィラは息を荒くしながら振り返り、追ってきた構造体に反撃した
改めてポイントをマークしておいたので、安全エリアへ移動してください
ちょっと、そっちは……大丈夫なの?
ハハッ……死んじゃいませんよ
笑いながら同じ言葉を彼女に返したマーレイだが、その手は素早くモニターを操作し続けている
ふん、なんでそんなに元気なのかしらね。私が訊きたいのは……
あれは空中庭園で起きた、無数の「当たり前の1日」のひとつだった
マーレイ、遅刻するよ。何を見てるの?
ああ……すぐ行く
あれ?あの構造体どこかで……君の見舞いに来てたよね?
……うん、僕の兄さんだよ
うおお!君がいつも言っている「優秀な構造体兵士」の兄さんか!
構造体ってあまり自由に行動できないんだろう?挨拶しなくていいの?
そう……だね
マーレイはリーの方を見たが、リーは自分に気付かなった。リーは慣れた手つきで装備を確認し、振り返ることなく任務地点へ向かった
……
ファウンスに入学してしばらく時間が経っていた。あの学校は空中庭園の上層部に接触するための一番の近道だった
マーレイには家柄の後押しがない。最短で空中庭園の上層部に入るには、全ての時間を利用し、利用できる全てを利用するしかなかった
全ては計画通りに進んでいた。誰にも気付かれないよう自分が望むポジションにつき、その後は上層部から兄を守る。その全てを兄は知ることはない
――それが幼い彼が考えた拙い「馬鹿げた計画」だった
しかし今の時点では、彼は隣で構造体軍人を見て興奮している同級生と変わらない。遠くで見つめるしかない傍観者だ
兄との距離はあまりにも遠く、どれだけ走っても、その距離を縮められない
最悪ね……予定してた場所が2部の狂った研究員たちに占領されてる
状況は?
チッ……ノアンがシーモンを背負って、私たちは今マークされた場所へ移動してる。後ろの構造体はやって来そうもないわね
了解。そこで軍備と薬を補給したら……
あるだけの情報を全てまとめたマーレイの指揮を受け、ケルベロスは迅速にまだ正気を保っている指揮官と構造体を救出した
マーレイはマップでエデンの中でまだ正常に稼働しているエリアと、シェルターの位置を確認しながら作戦計画を立てていた。次は……どうすべきだろうか
しかし今……全ては変わった
……すまなかった
……これからはもうこんなことはしない
これからは何があろうとも互いに隠し事はしないって
うん……約束だ
自分を支えているのは「兄を幸せにする」という信念だけではなくなった。あの夜の兄とのやり取りと約束がマーレイの心に刻み込まれ、暗闇を照らす光となっている
苦しみも真実ももう隠さない。お互いを信じ、お互いを支えあう
たとえ地上と空中庭園で距離を隔てていても、マーレイには今も兄とともにいるように感じられた
兄は地上で全人類のために未知の存在と戦っている。自分も兄に約束したように、兄を守り、兄が守りたいものを守る
それにもともと、マーレイは地上での作戦には向いていなかったのだ。もし途中で事故にでも遭い、何もできないまま死んでしまったら……彼は死んでも死にきれない
まだ兄に話したいことがたくさんある。経験した多くのことを兄と分かち合いたいと思っている……
扉の影から見つめるような、あんな後悔はもうしたくない――
もう無力感に打ちのめされるのは嫌だ――
不安、心配、怒りの下に隠されていたふたりの本音は、今やふたりの間を阻む障害ではなくなった
マーレイ……気をつけて
わかっているよ、兄さん。遠隔リンクだから僕は地上には行かないし、問題ないさ
戻ったら、また会いに行く
……わかった
待ってるよ。兄さん
まだ正気の指揮官と構造体は全員ここに
エデンのマップにチェックをいれたマーレイは、ホッとひと息ついた
まずは……ケルベロス小隊は……
兄の心臓が自分の胸で脈打っている。文字通り、自分は兄の献身のお陰で生きている。だからこそ兄から頼られる存在に――
それが自分なりの、約束を守る彼のやり方だ