科学理事会、閉鎖実験エリア――
かつてせわしなく点滅していた機械は壊れ、せかせかと歩く研究員の姿もない。床に散乱する割れた器具が、ここでどんな暴力行為が起きたかを物語っている
だが機体が入っていたカプセル室は防弾ガラスで守られていたため、正気を失った研究員でもそれを破壊することはできなかったらしい
警告用の赤い光に囲まれたカプセルを見つけたリーは、すぐにカプセルの中に入り、慣れた様子で端子を自分のうなじに繋げた
今まで何度となくそうしてきたように、全ての難題を解決する、そのために
>>>>機体交換の臨時権限を付与し、起動パラメータを入力します
>>>>権限付与成功、意識転移開始
>>>>意識転移中、コードに触れないでください
>>>>意識転移完了
不快な窒息感に襲われ、目の奥でちらちらと不気味な光が輝く。交互に現れる光と闇に飲み込まれていく……
意識海の最深部から冷たい絶望と痛みが浮かび上がり、ねじれて歪んだ塔の形となり、また崩れていく……
時はもう時計を進ませるものではなくなり、立体映像となって彼の目の前で繰り返されている……
思考は高次元の力に引っ張られるように、時空が垂らした蜘蛛の糸を登り、未知の場所へと進んでいく。だが彼は登頂する前に、再び墜落してしまう
蜘蛛の糸の先には、天地を繋ぐ扉がそびえ立っている。その扉の背後で輝く、目を刺すような白い光が、ここまで来いとばかりにリーを誘う
「時間」は陽射しのように零れ落ち、急速に入れ替わる。リーは延々と日の入りと日の出を体験した。この世界の狭間で、琥珀の中の虫のように、指一本動かせない
見慣れた物が滅び、また再生を繰り返す。目の前で早送りされる、その割れた鏡のような破片をよく見ようとしても、視覚モジュールは靄がかかったようにぼやけている……
うっ……!
>>>>警告、無許可機体へのアクセスを察知
>>>>警告、無許可機体へのアクセスを察知
無理やり機体を交換したが、制御権限を完全に得た訳ではない。新しい特化機体は強力かつ未知の武器のため、その戦闘機能には適合前に何層もの制限がかかっている
だが、ここで時間を無駄にはできない
……多少強引にでも権限を手に入れなくては!
>>>>警告、無許可機体へのアクセスを察知
>>>>警告、無許可機体へのアクセスを察知
冷ややかに警告音が鳴り続ける。リーはなんとか立ち上がり、全力で意識海の中の嵐を止めようとした
……
戦闘力を手に入れねばこの後の問題を解決できない。そして今、この問題を解決できるのは自分ひとりだけだ
彼は電子モニターを開き、最も上に名前が表示されている人物に通信要請を送った
地上時間、6:30 PM
緋色の薄霧が立ち込める廃墟には腐敗臭が漂っている。塔の底部には歪な赤い蔓がうねうねと巻きつき、天に昇ろうとするように上へと伸びていく
大地にそびえる塔は、巨大な目のように冷たく地面の全てを睨みつけている
静寂の中にガサゴソという音が響いて、暗闇に無数の赤い光が浮かび上がった
前方の空気中のパニシング濃度が更に上昇しています!
異合生物がどんどん集まってきているようです……
近くから見上げると塔の威圧感を更に強く感じた――この塔の高さ、そしてモニターで更新されるパニシング濃度の数値。どちらも人々をパニックに陥れるには十分だ
塔の座標に近付くにつれ、不安感が急速に増していく
突如目の前に現れた高い塔、原因不明の電磁波、切断された通信、理性を失った仲間、溢れ出る異合生物……
今回の問題について考えていると、前方で偵察中だったルシアが状況を報告してきた
前方のパニシング濃度は、防護服の安全閾値を超えています
指揮官、もうこれ以上前進できません
通信設備自体に問題はありませんが、空中庭園のチャンネルを検索できません。先ほどアシモフさんとの通信が中断されたのは、もしかして……
彼女は話し続けようとしたが、口をつぐんだ
空中庭園の方にチャンネルの支障が起きたということは、つまり空中庭園そのものが制御不能な状態に陥っているのかもしれない
あるいは空中庭園ではなく、科学理事会やアシモフが……
どうであれ、状況は依然厳しいままだ
どこからも受信していません……
リーフは険しい表情で頭を振った
通信手段を失っているだけなのか、それとも異合生物の対応に追われて信号を送れないのかは、わかりません
これほどの数の敵が――
塔に近付くにつれ、大量の異合生物が潮のように塔から溢れ出てきた
異合生物は絶え間なく次々と生まれ、飛び出してくる。ルシアとリーフがいくら戦ってもきりがない
グレイレイヴンですらこれほどの敵を前にすれば手こずっているのだ。他の小隊はなおさら厳しいだろう
それはルシアとリーフだけではなく、自分自身にかけた励ましの言葉だった
かつて人間は信念という名の炎をかき集めることで、数多くの不可能を可能にしてきた
「未知」には危険だけではなく、希望だって潜んでいるはずだ
しばしの静けさの中、リーフが操作し続けていた通信設備から「シャー」というホワイトノイズが聞こえた
どこからか連絡が?
……いえ、ただの電流のノイズのようです
リーフはがっかりしたような表情を浮かべている
その途端、体の近くで通信要請を知らせる微かな音がした
……指揮官!
慌てて戦術バッグから通常とはタイプが異なる小型通信機を取り出した。その通信機の緑色のランプが光っている。通信中という意味だ
リーにこの緊急通信装置を渡された時、さすがに用意がすぎると思っていたが、まさか本当に使うとは。ずっと持っていてよかった――
指揮官、力をお貸しください
ジャミングされている通信の向こう、リーはこちらが見たことのない機体で現れた。彼の特化機体の状態を見たのは初めてだった
まさかこんな状況で見ようとは……まったくの想定外だったが
遠くから異合生物の叫び声が聞こえ、緋色の霧が廃墟を覆っている。画面に映るリーは眉をギュッとしかめ、険しい表情をしていた
はい、決して万全の状態とはいえませんが
空中庭園は電磁波に影響され、多くの者が精神に異常をきたし、非常に危ない状態です。アシモフも攻撃されて重傷を負いました
科学理事会の推測では、まもなく次の電磁波照射が発生します
僕はある特別な手段で情報を得て、先行して新機体に交換しましたが、アシモフが気絶したままなので……あなたの権限がないと完全には起動できません
リーは淡々と話しているが、その「特別な手段」がどれほど危険なことだったのかは、彼の真っ青な顔を見れば自ずと知れた
武器の権限を含め、機体の全機能を起動させる必要があります
リーは目を伏せ、少しためらいながら話を続けた
全ての問題を解決するには、まずあの塔に入らなくては
僕にはできます
機体適合の実験報告を毎回送っていますし、データを見ているからわかりますよね?今、空中庭園でパニシングに完全な免疫があるのはこの特化機体だけです
つまり塔に入れるのは、この特化機体だけなんです
僕たちはもっと危険な時も一緒に戦ってきました
違いますか?指揮官
これが今できる唯一の方法です
それに……
リーは具合が悪そうに口ごもったが、また話し出した
異重合の欠片でアシモフが解析した唯一のメッセージを覚えていますか?
「これは……『未来』という名のプレゼント」
あれから僕はアシモフと、異重合の欠片から更に情報を解析しました
しばらく誰もがじっと黙り込み、地上と空中庭園のチャンネルに流れるホワイトノイズの音だけが聞こえていた
彼は珍しくリラックスしたような話しぶりだった。その内容がもたらすこちらの緊張をほぐそうとしているようだ
そのメッセージがたとえ嘘だとしても、この機体はパニシングに完全な免疫があるんです。今の僕たちができる最良の選択、ってことですよ
僕は空中庭園の最精鋭、グレイレイヴンの一員ですから。数多の戦闘を経験し、十分な能力と経験があり――
無口な彼がこうも滔々と話すのはいつぶりだろう。彼の話を遮ったことにより、そのため息が空中庭園から通信チャンネルを伝って、スピーカーで流れていく
……指揮官のお考えはわかっています
リーは雨の中で羽を震わせる蝶のように、一瞬だけ儚く微笑んだ
機体性能の面でも、これを誰がやるのかという面でも、僕が演算して導き出した唯一の選択がこれなんです
あなたもすでにわかっている、そうでしょう?
もちろんそれは設問の下に回答が透けて見えるくらい、わかりきったことだ。リーが新しい機体に換え、塔に入って問題を解決する……
しかし湧き上がる迷いと恐怖で、その答案をそのまま用紙に書いて提出できない自分がいる
考えていることくらい、わかっていますよ
ホワイトノイズの中から耳によく馴染む、落ち着いた声が流れてきた
未知とは必ずしも解がないことではありません。時には、未知こそが真の希望をもたらすかもしれません
……あなたたちがずっと僕の側にいてくれると知っている今こそ、僕は必ずやり遂げてみせます
今こそ、僕が選択をする時です
画面の中の構造体は力強い意思を示している。彼の表情には後悔も迷いもなく、毅然とした勇気だけが凛々と満ちていた
それはできません。危険すぎる
この機体は……意識海の揺れがとても強烈です。何か突発的な事態が起きたら、僕はそれについて保証できない――
迷っているリーの様子からしても、その機体にはまだ不安要素が多くあるのが明白だった。なおのこと、彼ひとりだけを危険に晒す訳にはいかない
緋色の空に浮かぶ真っ白な姿を思い出す――心臓に痛みが走る。リーフは心配そうにこちらを見ている
幸い、今回はまだ間に合ったのだ
リーが見つめてくる強い眼差しに、自分も正面から見返して一歩も引くつもりがないことを伝えた
……
わかりました
では、その条件はのみます
納得のできる答えを聞けたことで端末を開き、その時になって指揮システムが無反応になっていることに気付いた
戦闘時の特別処理ルールに則って、指揮官は戦場における優先判断権を持つ。サブ画面を開いて権限内容を選択した――
モニターをタップするだけなのに、こんなに長いと感じたのは初めてだ。リーなら完璧な備えをしているとわかっていても、どうにも不安が拭えない
原因不明の電磁波、未知の螺旋の塔、混乱するマインドビーコン……全てが混ざり、カオスな色彩を形作り、脳裏に塗りつけられていく
……はい
相変わらずホワイトノイズが混じる通信の向こう側、空中庭園にいるその構造体は、一瞬こちらを強く見つめて通信を切った
廃墟に再び死の沈黙が訪れた。遠くからは異合生物の叫びが聞こえる
>>>>指揮官権限を確認
>>>>認証成功。機体使用権限、全開します
権限が開放され、モニターにはデータが次々と表示される。モニターの前に立つリーの瞳に、表示されるコードが反射している
機能展開、データテストクリア、武器権限開放……
機体が稼働し始めた。意識海過負荷の苦しみは前ほど強くない。Ω武器システムの開放と同時に、彼の網膜に時間と空間がクリアに映った
これは……!
空間は色を失い、時間とともに固まった。数人の人影が彼の側に現れたが、次の瞬間、何かに攻撃されたように地面へと倒れていく
目の前に不気味な映像が一瞬現れたが、リーが視覚モジュールを合わせても、その映像は二度と捉えられなかった
Ω武器の最大出力のシミュレーション終了を知らせる測量機器の音が鳴った。数値は全て正常だ
先ほどの未知の状況について考える余裕もなく、リーは他の機能やモジュールが正常なのを確認すると、実験エリアを離れた
もうここまでやって来たとは……
科学理事会の扉は非力な科学者なら足止めできても、百戦錬磨の構造体を止めることなど不可能だ
実験エリアの入口には、精神異常の兆候がある数名の構造体が戦闘状態で待ち構えていた
その中には浜辺でともに戦った執行部隊のメンバーや、監察院所属の構造体小隊もいた
あいつが裏切り者だ!!権限もないのに科学理事会の新機体を奪いやがったッ!
まさかこちらの最新機体を引っ提げて昇格者の下に行こうってのか!?絶対にここから出すな!
くそったれの裏切り者!!
全人類の敵め……
拳銃を手にした構造体がリーに突進した。リーは彼をかわし、彼が握っていた銃を自分の武器で叩き落とした
戦闘機能をフルオープンにした新機体は、誰も相手にならなかった。あっという間に構造体のほとんどが行動能力を失い、地面に転がっている
パニシングに侵蝕された痕跡はない
彼らの指揮官のマインドビーコンが汚染されて、意識海から構造体に伝染したのか……
これはよくない知らせだな……でも今は時間を無駄にできない。申し訳ないが
科学理事会の閉ざされた扉をちらっと見たリーは、下層駐機場のマップを開き、急ぎ足で向かった
彼には輸送機が必要だった
地上へ突入し、全ての問題の根源を解決できる輸送機は必須だ